ゴーストインザヘッド

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何者にもなれなかった私の生存戦略

きっと何者にもなれないお前たちに告げる

『輪るピングドラム』という2011年に放送されたアニメがあります。

『少女革命ウテナ』の監督・幾原邦彦による、2クール(全24話)のオリジナルアニメです。

キャッチコピーは「きっと何者にもなれないお前たちに告げる」、「僕の愛も、君の罰も、すべて分け合うんだ」。
 
 
さて、人が「何者かになれた、あるいはなれるかどうか」を強く意識する最初の節目は「二十歳」であるように思います。

『輪るピングドラム』放送開始当時、私は二十一歳でした。当時の私には「きっと何者にもなれないお前たちに告げる」という言葉が深く刺さったのです。

私の好きな作家、村上春樹も『ノルウェイの森』でこう著しています。
 

私、二十歳になる準備なんて全然出来てないのよ。変な気分。なんだかうしろから無理に押し出されちゃったみたいね

 

思うんだけど人って、十八と十九の間を行ったり来たりするべきなのよ。十八が終わったら十九になって、十九が終わったら十八になるの。そしたら、そしたら……色んなことがもっと楽になるのに

 
 
さて、「二十歳」から十年近い時が流れましたが、未だに私は「何者か」になれてはいないです。

もちろん社会的、関係性的に何者かではあります。

職場では役職を貰い、また夫として、子供の父親として。私という個を説明する言葉は手繰ればいくつもあるでしょう。

しかし同時に、それは単に私という存在を説明する記号でしかありません。

なにかによって運命づけられた、代替不可能な存在ではないのです。
 
 
ハフポストの記事が非常に印象的だったので、ちょっと長いけれど引用します。
 

かつて、E.エリクソンがアイデンティティという概念を広め始めた頃、「私はこういう人間である」=アイデンティティは、仕事に就く、友達をつくる、結婚をする......といった具合に人生の構成素子が決まっていくうちに固まるものだった。この頃、殆どの人にとって「何者かになる」ことはそんなにハードルの高いものではなかった。アイデンティティを構成する素子は、決まりやすく、壊れにくかった。
 
さらに遡ると、「何者かになる」というテーマは大抵の人にとって意味の乏しいものだった。農家の子どもは農家の子ども、酒屋の息子は酒屋の息子、そして鍛冶町の○○さんちの倅は○○さんちの倅であって、それ以上でもそれ以下でもない。イエ、身分、職業――そういったものによって個人の人生が規定されていた時代には、「自分が何者になるのか」はほとんど運命のようなもので、むしろ「あらかじめ何者なのかが運命付けられていること」こそが物語のテーマたりえた。
 
「きっと何者にもなれない時代」の平凡と「あらかじめ何者かが強制された時代」の平凡 | ハフポスト

 
上記のように、「何者にもなれない」というのは、個人が個人として自由に生きる世界・社会だからこそ生じてくる問題なのかもしれません。
 
 
あと10年すれば私は四十歳になります。

私は今現在何者にもなれていないし、これから先も「きっと何者にもなれない」、それをひしひしと感じています。

何者にもなれないことが怖い、自由であることが怖い。私には常にそんな恐怖がつきまとっています。

村上春樹も『騎士団長殺し』でこう綴っています。

私は三十六歳になっていた。そろそろ四十歳に手が届こうとしている。四十歳になるまでに、なんとか画家として自分固有の作品世界を確保しなくてはならない。私はずっとそう感じていた。四十歳という年齢は人にとってひとつの分水嶺なのだ。そこを越えたら、人はもう前と同じではいられない。それまでにまだあと四年ある。しかし四年なんてあっという間に過ぎてしまうだろう。

これはアラフォーとなった画家の主人公が、芸術作品として後世に残るような作品を描けないまま、生活のために肖像画ばかり描いていることを葛藤しているモノローグです。

「しかし四年なんてあっという間に過ぎてしまうだろう」に込められた感情は、紛れもなく恐怖であると思います。
 
 
二十歳の節目を何者にもなれないまま見送った私にとって、次の節目は、分水嶺は、四十歳なのかもしれません。

でもこれまで何者にもなれないまま十代を、二十代を過ごしてきた私にとって、三十代を経て何者かになることはきっとできません。

「しかし四年なんてあっという間に過ぎてしまうだろう」は「しかし十年なんてあっという間に過ぎてしまうだろう」に等しいのです。
 
 
「グダグダ言ってないで死ぬ気でやってみろ」「何かに本気で打ち込み続けろ」、人によってはそう言うかもしれません。

でも、死ぬ気で何かに打ち込んで、それでも何者にもなれなかったら? それが私は怖い。

よく「やらずに後悔するならやって後悔したほうがいい」なんて言いますが、私は全くそうは思いません。

だって、やってみて駄目だったら、それはもう本当に駄目だということです。

ならば全力で打ち込むこと無く「あのときこうしていればもしかしたら」という小さな小さな可能性の芽を胸の中に抱き続けていた方が、その方が救いがあると思いませんか?
 
 
きっと私は四十歳も、五十歳も、それまで生きていれば八十歳になっても、何者にもなれないまま、「あのときこうしていればもしかしたら」という希望に縋って生きてゆくのでしょう。

でも、それでいいのです。そうでなくては私のような心の弱い者は、この世界を生きてはいけないのです。
 
 
「何者かになる」というのは、思えば人によっては非常に困難なことなのかもしれません。

なぜなら、自分自身が「何者かになれた」という実感を得なくてはならないのですから。
 
 
私は小説を拾い上げてもらって本が出た時も、会社で管理職に任命された時も、子供が産まれた時でさえも何者かになれたという実感はありませんでした。きっとこれからも無いでしょう。
 
自身が主人公であるという感覚が著しく低いのです。自己肯定感の欠如と言い換えられるかもしれません。自己実現の問題、というと少しズレているような気がしますが、当たらずといえども遠からずでしょう。

私は、私が今まで生きてきて行ってきたすべての言動・行動が代替可能であり、「別に私でなくてもよかった」ものであると考えています。この文章だって主体は別に私でなくとも良いでしょう。

ですが実際問題、「その人でなければできないこと」なんて今の世の中あるでしょうか? 大企業の社長だって、売れに売れている芸能人だって、別にその人が他の人にすげ変わってもそれはそれで上手く回るのではないでしょうか。それこそ数百年に一人の大天才クラスでないと難しいのではないでしょうか。

99%の人間は、その人がその人である必要がないまま日々を送り、一生を終えるのでしょう。それが私にはどうしようもなく哀しく思えるのです。

無理に何者かであろうとせず、小さな幸せを噛み締めて生きるのも幸福なのでしょう。

しかし私はそれでも、何者かになりたい。

だから「何者かになれたかもしれない」という小さな灯を絶やさぬように、苦しみながら生きています。