ゴーストインザヘッド

元引きこもりのオタクが送るサブカル・エンタメ系ブログ。マンガ、ラノベ、ゲーム、ガジェットなどを中心に書いていきます。読んだ人をモヤモヤさせることが目標です。

自動更新!!

現在Kindleで読める無料マンガ

村上春樹「螢」に見る再会と喪失

村上春樹「螢」に見る再会と喪失

村上春樹「螢」に見る再会と喪失

村上春樹の短編小説「螢」をご存知でしょうか?

「螢」は大ベストセラーである『ノルウェイの森』のプロトタイプと言われる作品です(春樹自身も『ノルウェイの森』のあとがきでその旨を述べています)。
 

 
実際、物語の流れはほとんど『ノルウェイの森』と同じであり、『ノルウェイの森』の序盤にあたる部分で物語は終わっています。
 
 
しかしながら私は、この「螢」という作品が、単に『ノルウェイの森』の一部としてではなく、一つの完成された作品としてみています。

今回はこの短編作品「螢」について、『ノルウェイの森』との比較を交えながら見ていきたいと思います。

状況の説明をなるべく添える努力はしていますが、バンバンネタバレもしますので、できれば「螢」をお読み頂いた上、駄文にお付き合いいただければ幸いです(もちろん既読のハルキストは大歓迎です)。
 
※本文引用は村上春樹『螢・納屋を焼く・その他の短編』第九版に依ります
 

 

「螢」という作品の主題

この「螢」という作品の大きなテーマは「僕」の「彼女」の喪失にある、と私は読みます。
 
 
主人公である「僕」は学生寮で暮らす日々のなかで、亡き友人である「彼」の恋人だった「彼女」と再会すします。

「僕」は「彼女」とデートを重ねるようになり、何度か会ううちに「彼女」は「僕」の腕にすがり、温もりを求めてくるようになります。しかし「僕」は気付いていたのでした。
 

彼女の求めているのは僕の腕ではなく、誰かの腕だった。彼女の求めているのは僕の温もりではなく、誰かの温もりだった。

 
この一文は、『螢』という作品の主題のひとつを投影していると考えられます。

即ち、《愛する者から求められない悲哀》です。
 

時々彼女は何の理由もなく、僕の目をじっとのぞきこんだ。そのたびに僕は悲しい気持ちになった。

 
彼女は僕の中に「誰か」を追い求めていました。
彼女が求めていたのは「僕」ではない「誰か」なのです。

僕の目を見つめる彼女が、僕を見ていないことに気付いていたため、僕は「悲しい気持ち」になったのでした。
 
 
この「誰か」とは僕の死んだ友人であり、彼女の恋人であった「彼」と考えて間違いないでしょう。

「彼女」が真に求めているのは死者である「彼」であり、「彼」の温もりを得られぬ寂しさを「誰か」の温もりで紛らわそうとしているのです。残念ながらその「誰か」が、「僕」である必然性は全くありません。

そのことを「彼女」の「どこにも行き場のない透明」な目から「僕」は感じとっていたのでしょう。

また「僕」の目は、かつて友人であった「彼」を映していたはず。「彼女」は僕の目の中に「彼」の残滓が僅かでも残っていないかと、じっと覗きこんだのかもしれません。
 
 

「彼」の喪失

かつて、「僕」と「彼女」の関係は、「彼」の存在を介してのみ成立するものでした。

「彼女」にとって「僕」は恋人の友人であり、「僕」にとって「彼女」は友人の恋人、それ以上でもそれ以下でもなかった危うい三角形です。
 
 
しかし「彼」が死によって退場したことにより、「僕」と「彼女」の関係はもはや成立し得なくなってしまったのです。

二人の会話中に「彼」が登場することは決してありませんでした。かつての「僕」と「彼女」の関係は「彼」がいてこそ成り立っていたのにです。「彼」を意図的に排除した関係は、非常に空虚であるといえるでしょう。

「僕」は「彼女」を求めていますが、「彼女」が求めているのはあくまで故人となった「彼」なのですから。
 
 
「彼女」が「僕」を求めていない以上、やがて「彼女」が「僕」の元を去ってしまうのはある意味必然でしょう。ここから、《愛する者の完全なる喪失》という、作品のもうひとつの主題が浮上します。
 
 

ノルウェイの森との比較

さて、ここで『ノルウェイの森』と比較してみましょう。

「螢」では「僕」「彼女」など代名詞が用いられ、人名が登場しません

対して『ノルウェイの森』では、僕にあたる人物に「ワタナベ」、彼女にあたる人物に「直子」と、固有名が与えられています

名前をつけるという行為は呪術の一環としての側面も有り、存在を規定し、縛ることに繋がります。
たとえば、妖(あやかし)に名前をつけることでその存在を規定し御しやすくする……ということは数多く言及されています(小説で言えば京極作品や夢枕獏の「陰陽師」などなど)。

「螢」から『ノルウェイの森』へと作品が再構成される際に、「僕」や「彼女」といった代名詞から、固有名に変化することで、登場人物の存在が規定され、より強固になったと考えられないでしょうか。

逆に言えば、固有名の与えられぬ存在は、非常に曖昧で、不安定であると言い換えても良いかもしれません。
 
 
まるで闇夜に消える蛍のように忽然と消失した「彼女」は、『ノルウェイの森』で、「直子」という固有名を与えられることで再び現実へ帰ってくる……。

『ノルウェイの森』において直子は自殺という形で死を迎えますが、これはあくまで現実に生きる人間としての死です。

直子は、直子という人間が確かに存在したという確かな痕跡を残して、死の世界へ向かったのです。
 
 
対して『螢』の「彼女」は、手紙だけを残し「僕」の前から消えてしまいます。

生死は分かりません。文字通り蛍の如き消失です。
 
 
「螢」という作品において、蛍が彼女を象徴しているのは明白です。

しかし『ノルウェイの森』においては蛍=直子の象徴であるとは言い難いです。

「螢」における「彼女」=『ノルウェイの森』の直子の図式がここで崩れるわけです。
 
 

「彼女」の喪失

 

彼女が二十歳になるというのはなんとなく不思議な感じがした。僕にしても彼女にしても本当は十八と十九のあいだを行ったり来たりしている方が正しいんじゃないかという気がした。十八の次が十九で、十九の次が十八――それならわかる。

 
これは「僕」の願望です。この願望に反して、「彼女」は「僕」より先に二十歳を迎えます。

二十歳とは、十代と二十代という差異を超えた何かを分かつ重大な境界です。

「僕」を置いて「彼女」がその境界へ到達し、超えてしまうことは、「僕」に「彼女」の喪失を予感させたのでしょう。

まるで去っていく「彼女」を繋ぎ止めようとするかのように、「彼女」が二十歳の誕生日を迎えたとき、「僕」は「彼女」と寝ます。触れられぬ存在であったはずの「彼女」に触れてしまったのです。
 
 
そして「僕」は「どうして彼と寝なかったのか」とまで訊ねました。これまで完全に排除してきた「彼」の話題までも出してしまったのです。

この時「僕」は、「僕」と「彼女」の間に横たわっていた、ある種の禁忌(タブー)を犯してしまったのです。

そして翌日、「彼女」は「僕」の前から完全に姿を消してしまいます。
 
 

記憶の中の蛍と、「彼女」との離別

 
物語の最後、「僕」は同居人から、インスタントコーヒーの瓶に入った蛍を貰います。
 

瓶の底で、螢は微かに光っていた。
しかしその光はあまりにも弱く、その色はあまりにも淡かった。
僕の記憶の中では螢の灯はもっとくっきりとした鮮やかな光を夏の闇の中に放っているはずだ。
そうでなければならないのだ。

 
「僕」の記憶の中ではもっとくっきりとした鮮やかな光を夏の闇に放っているはずの蛍の光は、あまりにも弱く、その色はあまりにも淡いものでした。

繰り返しになりますが、ここに登場する「蛍」とは「彼女」の象徴です。

それゆえに、記憶の中で力強い光を放つ蛍を思い浮かべた「僕」は「そうでなければならないのだ」と強く願います。しかし、現実の蛍の光は、弱々しいままでした。
 
 
「僕」は蛍を放とうと、給水塔の縁に蛍を置き、じっと見守ります。

「まるで息絶えてしまったみたいに」動かなくなった蛍を、「僕」はいつまでも待ち続け、ついに蛍は「僕」の元を飛び去ります。
 

蛍が消えてしまったあとでも、その光の軌跡は僕の中に長く留まっていた。目を閉じた厚い闇の中を、そのささやかな光は、まるで行き場を失った魂のように、いつまでもさまよいつづけていた

 

僕は何度もそんな闇の中にそっと手を伸ばしてみた。指には何も触れなかった。その小さな光は、いつも僕の指のほんの少し先にあった

 
「螢」という作品の主題を孕んだ、非常に象徴的な文です

時系列的に言えば、蛍を放つ場面は「僕」が「彼女」と寝る場面よりも後のことです。

しかし、螢の光は「いつも僕の指のほんの少し先にあった」のです。

「僕」は気付いていたはずなのです。「彼女」は、届きそうなところにいるが、「僕」の差し出す手は決して届きはしないということを。

それを知っていながら、「僕」は「彼女」と寝てしまいました。

常に喪失の予感を感じながらも、「僕」は愛する「彼女」に触れずにはいられなかったのです。それほどまでに、「彼女」という蛍の放つ光に魅せられていたのです。

結果、蛍が飛びさるかのように、小さな光の残滓だけを残して「彼女」は「僕」の前から消え去ったのでした。

これは完全なる喪失です。「彼女」は、生や死という枠を超えて、「僕」の手が決して届かぬ場所へと行ってしまったのです。
 
 

直子と「彼女」

『ノルウェイの森』でもこの蛍を闇に放つ場面が描かれていますが、しかし、直子はワタナベの前に再び現れます。

先程触れた名付けの力を考慮するならば、直子は、「直子」という固有名を得たことで、自身が消失してしまうほどの曖昧な存在ではなくなったということではないでしょうか。
 
 
直子は確かに、生きていく強さを持たない女性です。

しかし言い換えれば直子は、生きながらにして死者の世界に属している存在と位置づけられるのではないかと考えます。

そう考えると、『ノルウェイの森』では緑という女性が追加されたことで、生の象徴たる緑、死の象徴たる直子という対比構造も生まれます。
 
『ノルウェイの森』においては、直子は<死>を担っている存在なのです。
 
 
しかし「螢」の「彼女」は違います。
 

目を閉じた厚い闇の中を、そのささやかな光は、まるで行き場を失った魂のように、いつまでもさまよいつづけていた

 
「彼女」が向かったのは死者の世界ではなく、「僕の指のほんの少し先」なのですから。

生者の世界にも死者の世界にも向かわなかった「彼女」は、まさに「行き場を失った淡い魂」なのです。

たとえ「僕」が死の世界へ向かっても、「彼女」には決して届かないのです。

これこそが、「彼女」の喪失――《愛する者から求められない悲哀》であり、《愛する者の完全なる喪失》なのです。
 
 

まとめ

 

僕は何度もそんな闇の中にそっと手を伸ばしてみた。指には何も触れなかった。その小さな光は、いつも僕の指のほんの少し先にあった

 
これは私の読んだ文学作品の中でももっとも印象に残る、哀しく美しい名文だと感じています。

性的なシーンばかり悪い意味で注目されがちな春樹ですが、その実非常に美しい文を綴る作家なのです。
 
 
騎士団長殺し』『海辺のカフカ』そして『ノルウェイの森』と長編作品が注目されがちですが、個人的に、春樹の本質は短編にこそありと感じています。

「螢」の収録されている『螢・納屋を焼く・その他の短編』のほかにも『パン屋再襲撃』など素晴らしい短編集が多くありますので、春樹作品にはじめて触れる方や、長編は苦手だな……と感じている方にこそぜひぜひお読み頂きたいです。
 
 
というわけでかなり長くなってしまいましたが今回はこのへんで! ではでは。